INVISIBLE STORM

だからわたしはわたしを砕く

対比的生活

 『死にたい』と『生きていたくない』って似ているようでだいぶ違う。
『死にたい』に対しては多種多様で様々な意見が上がっているけれど、『生きていたくない』はざっくばらんに【生への拒絶】なんじゃないかな。
 明日への希望が見えないとか、生きる意味がわからないとか、そういう概念的な苦しみは『死にたい』として―……悪く言えばコンテンツ化してしまった苦しみだ。人によっては分かち合えたり、昇華できたりするけれど、その苦しみをどうにもできない人が大半だと思う。自分を最も傷つけるのは『死にたい』のほうだし、この感情にはピンからキリまであって収集がつかない。そのせいも相まって、この言葉は軽く見られがちだ。
 じゃあ逆に、『生きていたくない』とは何なのかということになる。【生への拒絶】ってだけじゃ、あまりにもそのまますぎて『死にたい』と同じじゃんと思う人も多いだろう。
じゃあ【生からの逃避】の方が言いたいことが伝わるかもしれない。生きることからの、逃げ。
 『死ぬ、の反対は生きる』っていうのは当たり前のように言われてるけれど、『死なない=生きる』とか『生きない=死ぬ』というのを見ると、あれ? と思ってしまう。
それは私の中で『生きる』ということがただ『生物として活動できる状態にある』ことではないからだ。ただ息を吸って吐いてってやってるだけじゃ生きてることにはならない気がする。極端な例え方だと、植物人間は生きてるのかって話。
 食べて寝て学校に行ったり職場に行ったり勉強をしたり仕事をしたり。動物とは違う、最低限度の人間らしい生活が生きるということだと思っている。
 勿論、訳あって学校に行けなかったり仕事をしていなかったりする人は大勢いる。でもきっとその人にとって違う『生きている』生活の仕方はあるだろうと思う。何が生きてることになるのかは他人にはわからないし、自分にもわからないかもしれない。でも何故か、それを放棄したら自分でわかるような気がするのだ。
普通に学校に行ってた友達が登校拒否をしても別に死んでいるような感覚になってなかったから不思議だ。
 でも『生きていたくない』っていう感情への道のりは誰にでもあるように思う。もしかしたら無意識のうちに君も私も生きていたくないとか思っちゃってるかも。なーんて