希望の味を占めたあの日から絶望のない世界は帰ってこなくなった
3月1日
3月が始まった、始まってしまった。
2017年の3月が始まってしまった。
時間の経過というものにむかしから漠然と怯えていた。だって産まれてから17年と、もうそろそろ半年経ちそうなのに何者にもなれていないんだもの。未来に希望を抱いて、ああ、その頃の私はきっと何かになれているのだろう! と思い続けていたから、まだその《何か》の《な》の字も見えないほどまっさらに透明である自分に苛立ち、怯えているのだ。スケジュール帳が真っ白なことを畏怖する、その《何か》からまた遠ざかって命を無駄にしている気がしてくるから。
道の往復と可能性と
子供は何者にでもなれる
そういう意味で私はずっと子どもでありたがっていたのかもしれない。
自分にないものがずっと羨ましくて仕方がなかった、でもその一方で自分はそういうものを手に入れられる権利があると思っていたのだ。「大人になったら」という言い訳に隠れて自分から動こうとなんてしなかった。映画の登場人物の行動にあれこれケチをつけられるのに、自分はスクリーンの前から動こうとしなかった。そういう子どもだった。
自分を責めるような言い方をしたけれど、正直周りの人の殆どがそうだと思っている。何もしないで他人からはみ出ないようにレールを歩く方が、テレビの外では正しい世の中なんだ。私はあの点で照らされているディスプレイの住人じゃないから、行動することの大切さがわからなかった。そりゃテレビの中の人みたいになろうとしてレールを蹴飛ばしてみたこともなかったわけじゃないんだけど、残念ながら責任が持てないからみたいな最もらしいことを言ってまた戻ってきたんだと思う。
戻る道がないことほど怖いものはない。
たった1回の行動で他人の印象って怖いほど変わる。現実見ろよとか、大金出してバカみたいとか、そういう言葉で勇気はかき消されてく。何も行動しない方がかっこいい風潮は消えない、だってそっちが大多数で共感を呼びやすいから。
大声はりあげてライブのチラシ配ってる地下アイドルよりこたつでぬくぬくしながら2ちゃんに嘲笑った書き込みしてる方が賢いような世界だ。
世の中はいつも効率厨を利口って呼ぶ。
無題
ふと自分を無くしてみたくなって、SNSのアカウントを消してしまう夜を経験したことのある人は結構いると思う。私もそうだ。
全部消して、あるいは更新を停止して。ちょっと世界に耳打ちするのだ。「私が世界からいなくなっちゃったよ」と。
その信号に気づいて驚いてくれる人もいれば気づいてるのに無反応な人、気づかないけど最近見ないな、と思ってくれる人、を見る。最初のうちはいいのだ、みんながかなしむから。居なくなった仮想世界の自分の名前を呼んでくれたりするから。
でもしばらくすると、誰もその話をしなくなる。覚えていてくれてるのかもしれないけれど、わざわざ文字に起こして言う人は消える。目に見えるアクションはなくなり、またゆっくりといつもの画面がスクロールされていく。多分これ模擬自殺なんだと思う。
恒久的救済
一時的な関係に熱は求めないし、どういう状況だろうが案外未来を想像できるのだ、私たちは。
ただ、想像をした事柄の実現可能か否かということをそうではないのがなんとも皮肉めいている。すきな人と必ずしも永遠にいられるわけじゃないし人生は思ったみたいに成功しないし幸せと不幸せにこんな大きな谷間は無いだろう。
誰しも一時的な救済よりは恒久的な救済を求めるものだとおもってる。
シンデレラだって、一時的な救済で構わないのだとしたら一緒に舞踏会で踊って、それで終わりだ。これからずっと幸せに暮らしました、というエンディングがあるから女の子は童話にずっと憧れているのだろう。
私は人魚姫でいいというならその子はよほど自分が大事ではないのだろう、もしくは自分に酔いすぎているか。
対比的生活
現在登校拒否の友達に会った話
あの娘とあの娘は仲が悪いけど多分男は絶対に気づかないんだろうな、というのをよく見かける。
秘密の花園
本当に大事なものって何故か大切にできないし、箱の中に入れて誰にも見られないようにと匿って置いていたらいつの間にかその箱が何処かにしまわれて忘れてしまうこともある